昭和44年04月23日 月次祭



 この20日の御大祭を頂きましてあの翌日反省会が御座います。より良い有難い御大祭を頂こうより良いお互いの信心の進め方というかね、より良いものにする為に反省会をいたします。皆さん沢山集まられましてから色々お話しが出ましたけれども、私は中でこの度の御大祭は私としては何にも言う事がなかった。もうあの13日の13日会あの日から大祭の直接のご用が始まりまして、段々ご準備が完了してまいります。
 19日の前日には、もう今までにかって見た事のない程に、大祭の一つの盛り上がりと言った様なものを感じさして頂きました。御大祭もあの様に盛大に、本当にこの厳粛に有難く、それでいて楽しいお祭りを奉仕さして貰い、拝まして頂いた訳で御座います。是は、これで済んだとは思いませんと、自己を肯定しない様な行き方と、是で良いと云う事はない、是で済んだとも思われません。
 けれども私は是で済んだとは思いませんけれども、今までの大祭に比較いたしましたら、もう比較にならないくらに、まぁ言うならば、充実した皆さんの御用ぶりというか、御大祭をまぁ頂いた訳で御座いますが、是は私自身の事ではない、私自身としては色々是で済んだとは思うておりませんので、まぁ大いに反省さして頂区と頃が御座いました。皆さんは、どう云う事で御座いましたでしょうか。
 「これで済んだと」云う事では、もう信心はそこで、まぁ停滞するより他にないので御座いますから、矢張り御大祭を境に、又一段と違った信心を進めさして貰い、さしてもろうて、おかげを頂きたい。是が私思いますのに、この度大祭に色々とおかげを頂きました、是は私の事で御座いますけれども、「此の方の道は、傘1本で開ける道」と云う事は、此の方の道は、言わんでも開ける道、言わんでも開けて行くのだと道は。ですからなら御 大祭前に、言いたい事は色々沢山あったので御座いますけれども。
 けれども神様のお働きというものを信じて分かれば分かる程、言わんで済むおかげを頂いて、言わんで済むおかげを頂いたら、大祭完了後もう言う事ないと言った様な、おかげを頂いておると言う所を皆さん一つ分かって頂きたい。皆さんでもそうです日々の生活の上にも、言わんで済む信心。まぁいうなれば、心配せんで済む信心、所が心配なる、其処ん所に取り組んでです、心配なるけれども、バタバタしたりせずに、又はそれをどうこうと言わんで済む信心を頂きたい。
 そこの向こうには、言う事は無いという程しのおかげが約束される、ここが素晴らしい。言う事は無いと言うなら信心もでけませんのに、この様なおかげを頂いてと云う事になる。そこでその、信心もでけませんのにと言う所が、是はまぁなら、是は皆さんに言うとこは無かったけれども、私自身としては、色々考えさせられた事が沢山ある。第一私は今度、それもあれ是と準備完了し終ってしもうてから、いよいよ翌日の御大祭の親先生と私の玉串がでけておりました。 
 そして久富先生がもうそう、もうそんな時間になってから言われる事、本当に一日掛りでお榊とりに行ってから先生すいません、こういう榊しか無かった、そういう榊しか無かったからちゆうてから、あんたそりゃ早よ言やまだ他に手配もでけたのに、今夜もあんた、前夜祭も終わってそんな、こんな今頃言うたって、どうにもこうもしようがないじゃない。親先生どん見するなら、作り直せと言わっしゃろうけれども、まぁ今度は全部、立ち物から何からこちらでおかげを頂きました、
 ですから親先生知ってないから、もう大祭の時もそのまま、その玉串を差し上げたから良かった様なものの、前にどん見せとくなら、こんな玉串があるもんかと言われたに違いはない。今まで御大祭にかって、こういう玉串を使こうた事がなかった。どれも是も2本ずつこうやってしてある、枝が足りないとか、枝振りが悪いというのでしょう、ね、ですからお榊立てに立てても格好が悪い。
 そげなあんた、今頃遅う言うたってどうすんの、とまぁ言いながらもです、だから是だけは私の信心、私があげるのですから、玉串といや、いわゆる私の心と云う事である。こりゃ私の心の上に、猛反省さして貰わなければならんのであってです。その事だけ、その事だけと云う事は、是は御大祭じゃない、関わりがない事じゃないけれいう神様のご神意を受けた様に私は思うた。
 そこで大祭あけてからの言うならばそこに違った私の信心がまた工夫されております。皆さんはどうでしょうか私は皆さんに言い分はなかったけれども、皆さんはどうでしょう。それこそ言わんで済むおかげを頂きゃねそれこそ言うにも勝る程しのおかげが受けられるという体験を頂く。言うちゃならんなと愈々信心を深めていかなければならんなとそこからです、本当に思いもよらない程にスムーズなおかげを頂いて有難い。
 そこにいわゆる信心も出来ませんのにと云う事に、お互いなって来なければ、お互いの信心が是は間違いじゃなかろうかとこう、皆さんは皆さんとしてですこれは反省する、する所が是は私の言であって皆さんに言わせたら、そこに銘々ここもこぉではいけなかった、あそこもあぁでは私の心掛けもこんな事ではいけなかったと言った様なものを、私は発見される分かられる、そしてそれが、大祭を境にまた変わった信心に工夫されて行かなければです、値打ちが無い様に思うのです。どうだったでしょうか。
 今朝からの、ご祈念の後に、もうそれこそ久方、久し振りで大きな雷が落ちたと言った様な感じで御座いましたですね。今朝のご祈念、私は有難いと思うですね、あぁゆう大きな雷を落とさして頂けれる、私と皆さんと云う事が有難いと思うんです。「朝っぱらから、ほんなこて喧しゆうちから」ちゆってから、皆さんが声を変える段じゃないほんにそうじゃったと言う様な気持ち。
 というのも、皆さんがですね、ここではそのご理解を頂くと云う事は、もう非常にその大事に致します、ですから皆さんが、さぁとその、御神訓のどこを頂くといやそこを開かしてもろうて、銘々の手帳にここぞと思う所を、銘々控える程しの熱心さがあるので御座いますけれども、御祈念ということになると、非常に疎かになる。もう殆どが眠っておる様な感じ、こっから見ておるとね。
 久留米の、佐田さん所のお孫さんの恵介くんが一人声を張り上げて、その大祓いをあげておる、際立ってその大きな声をあげておる、頼もしい限り。大人はどうかというと、もうちゃんと正座してから、もうこうしとるけれども、心の中は眠っとる。それかと思うともう今日はもう何人も、今にももう倒れはせんじゃろうかちゆうごつ、こぅこぅやってその眠りよる。そういう疲れ応えの中に、朝の御祈念を頂いておられるのだから、有難い事だと思うけれども。
 さぁそこがです私が言わんで済むと云う事と、言わねばならないと云う事をですね、皆さんが聞き分けて頂きたいと思うのです。先生は言わんでええ言わんでええおかげを頂いとるち、んならもう誰でん眠り被ってから御祈念しよったっちゃ、自分の信心が眠り被っとるけん信者がこげな風と思ってから、言わんで良かろうとこでと言う様な事を言わずに、ここには矢張り信心の稽古に来るとこなんだから。
 同時にその稽古にです、私はおかげを頂いて貰いたいから、朝の御祈念が折角朝の暗い内から出て来て、沢山のお金を使こうて、言うなら人がまだ寝ておる内にお参りをさして貰うというだけの、言わば意欲とそういう願いを持って、お参りをして来るのであるから、それが眠り半分であっては、皆さんの為に、おかげにならんとこう思う。御祈念のやり直し、はぁそれからもうその、もうそれこそお広前が割れる様な勢いで皆さんが大祓い、普通の通りのご祈念をまたなさいました。
 それですからどうですか、今晩のお月次祭でも、人数は少なかったけども、朝のご祈念に参って来た人達がおりますから、今朝やられたばっかりじゃから、もう今日は皆が一生懸命にあげられたでしょうが、気分がいいでしょうが。それを知らなかった人が、あら今日はちょと違うぞ、お広前の雰囲気がと思われる位にあっただろうと思うんです、だから今朝お参りが出来てなかった方はです、今朝やられた時のその、事をひとつ皆さんもやられた積りでなさらなきゃいけません。
 どんなに素晴らしい御理解が御教えが分からせて頂いても、それにもう一つね、祈る力、私は今朝から皆さんに申しましたがですね、あの般若心経ですかね、の中に、神はぼんてん何とかてゆうのがありますよね、いわゆる、あの般若心経を声高らかに奏上、奏ずる所にです、もう世界中の神様でも仏様でもがです、それこそ、手の舞い足の舞いを知らない様な、お喜びをなさるという意味の事が、唱って御座いますよね、そりゃ声高らかにとか言うてあります。
 だから声高らかに一生懸命、一心不乱にです、一心不乱というのは、矢張りそういう風にしなきゃ出てこんのです。心の中で御祈念しよると言った様な。そこで私は申しました、そんなら、おや先生は朝の4時の御祈念には、黙って拍手も打たんで、ただ1時間御祈念して御座るだけじゃないか。だから皆さんも、拍手を打たんでも、もう神様が扉を開いて御座る、心の中で念じよっても、神様とお話し合いが出来よる。
 それこそ眠気んだんじゃなかと言う位な、おかげを頂いたら、私は別だとこう申します。皆さんはそれが出来んでしょうが、まだ。だから例えば本当に純真無垢というか、何にも頼むのでもなかれば、願うのでもない。只一生懸命のものを供える。天津祝詞を奏上し大祓を斉し拝詞を一生懸命腹の底から奏上さして貰うて、本当に例えば、だから是は皆さんにも申しました事ですけれどもね。
 自分の家に帰って御祈念をする時でもです一生懸命大祓いをあげなさい、隣近所が例えば喧しかち言いなさる位に一丁あげなさい。私の妹婿が胸の病気で長い間、椛目時代寝ておりましたが、私が朝昼晩御祈念をさして貰う、特に夜の御祈念なんかは、もう繰り返し繰り返し大祓いを腹の底からあげさして貰うと、2階に寝ています弟がです、兄さんのあの大祓いの声を聞きよるとね。
 もう苦しさも何もなく成って来ると、大祓いを一生懸命あげておられるのを、下であげておられるのを2階でそれを寝ながら聞かせて頂いておると、もうそれこそ何にもない、苦痛も苦しさもない、言うならば不安心配もその時だけはない程しに、おかげを頂くという意味の事を申しておりましたが。皆さんお家でどうでしょうか、御理解だけは詳しゅうなりました、けれども拝む事に力が入らない拝む時こそ、いわゆる大祓い。
 例えば般若心経をあげる時こそ、それを声高らかにあげさして貰う、仏前に香をたき、神前にお榊を立て、お明りを開けて、それを(?)様に、神様がお喜びになる、仏様がお喜びになる。それこそ、手の舞、足の舞をしらん程にお喜びになるというんですから、やはりまず、ここんところが大事に出来なければいけない。言わんで済むというてもね、そういう時には、私と皆さんがです。
 本当に言えれる私と皆さんになって頂きたい。そこまでお互い育ちたいと思うのです。けれども言や腹かく、言えば言い訳をする、是ではだからいよいよ言われん事になってまいります。ですからお互い信心の稽古をさして頂くので御座いますから、是で良いと云う事はありません。今度の御大祭は私は、是で良いというんではなくてです、今までにかってない、有難い御大祭を頂かして貰うて。
 本当に言う分はなか、もう言う所はないと私が皆さんにも申しました様に、かというてなら是で良いと云う事はない。それはどこかと言うと、私の心の上にそれを感じさして貰うた、それはお榊一つ玉串一つの上からです、それを私は感じさして貰った。そこに又私は御大祭を境に。一つの信心の工夫を、私なりにさして頂いて、大祭の境におかげを頂くと云う事になるのです。
 やれやれ御大祭が済んだ、はぁ立派な有難い御大祭じゃった、今までかってない程しの、有難い御大祭じゃったと、成程16日の御大祭よりも、より大きな豊なねもっとより神ながらな、おかげを頂くと先生が言うたが、本当により有難い、神ながらな20日の御大祭であったと言うておるだけではいけないと私は思う。そして私がその思う事ですよね、言わんですむ信心、それは神様を信じるがゆえに言わんですむ。
 そこにはですそれこそ言う事をいらん、言う事のいらん程しのおかげが現れて来るのだと。というてんなら是は決して肯定しておる訳でもない、是で良いというておるのじゃ実はない。というて否定しておる訳でもない。金光様の御信心が自己を肯定しないでの生き方、自己を否定しないでの生き方、どちらでもないと言う様な所をです、今度の御大祭で私は身を持って分からして頂いた様な気がするんです。
 そして皆さん、日々の生活の上にです。言う事ない、唯あるものは神様にお礼を申し上げる事だけ、信心もでけませんのにと言う所にお詫びをさして貰うだけ、と言う様な日々信心の生活。そういうおかげを頂きたいと思う、そしてどこまでも信心の稽古をさして頂くのであり、ここには取分け信心の稽古に通うて来るのであるから、分からん事をしよる時には言うて貰え、分からん所は教えて貰えれる、事のでけれる間柄というものを、私と皆さんの間に育てて行きたい。
 言わば今朝の御祈念から、もう今晩のお月次祭に、もうその雰囲気が変わっておる。心の中で唱えよるというてもです、例えば実際は大変な違いなのですから、一生懸命あげるそれこそ、その神様、いわゆる今日の御理解でも、世界中の神々様がと云う事は、天地の親神様が、に、響き渡る様な真心、一生懸命のものが、あの御祈念の姿の中から、発散して来る程しのおかげ。又隣にそれがおって、それを見ており聞いておったらです、えりを正さなければ居られない程しのおかげ。
 それを病人が聞いておったら、その病人、病気の苦痛もです、あの大祓いの声を聞きよったら、薄らいでくると言う位の、有り難さのこもった御祈念がね、一つでけにゃいけんて、今朝から私はその事を、そのまた後に時間が15分ばかり余りましたから、その15分ばかりの間に、その事を皆さんに聞いて頂いたんですけれども、これは朝の御祈念の方たちだけじゃありません。
 皆がいっちょその気持ちで、本気で神様も拝まして貰おう、本気で教えにも取り組まして頂こう、そこから、初めて言わんで済む信心が生まれて来るとこう思うのです。いよいよ、御本部の御大祭の御比礼を頂いて、ここで20日に御大祭が御座いましたが、その20日の御大祭を皮切りの様に、これから、そこそこの教会で春の御大祭が奉仕されます。まぁ九州では、ここと小倉が、小倉も20日ですから。
 もう九州皮切りの御大祭で御座いました。昨日私久留米の二代の石橋光男という先生の式年祭が御座いましたので親子でおかげを頂きました。それで前日ここに御用に来て下さった先生方が、もう何時もにないそのまぁご機嫌でです、本当にもう大変なお祭をやったですねと。ほんと大変お世話になりましたと向こうから声をかけて頂ける程しに、段々おかげを頂いていきよりますが、私は合楽の信心がです是から開かれる。
 どこそこの教会の上にも、必ずお役にたったであろうと思う。合楽ですらこぉだったまだ1年2年の教会がこぉだった。もう何十年の私共の教会はこげなこっちゃいかんよと言った様な、私は雰囲気が必ず生まれて来るとこう思う。そういう意味合いにおいても大変私はおかげ頂いたとこう思うんです。是から第一ここの支部で御座います、久留米の三橋先生所が27日にお祭りを、私が祭主の元におかげを頂きますから。
 どうぞそれから、その翌日28日は、恒例、親教会の御大祭で御座います。それから次々と御座いますから、また総代幹部の方達はお付き合い参りが、矢張りしなければなりません。それから明日は愈々久留米の櫛原の教会、所謂ここ辺りの、所謂親教会の親教会になる、石橋松次郎先生の所の御大祭です。現在三井教会の教会長先生が、教会長代理をなさっておられますから、そういう関係も御座いますから、ここからも沢山お参りを頂きたいと、こう思うのです。
 そこで先方からも、いうて御座いますお初穂は全部まとめて、御本部にお供えする時の様にして、記念品を渡される、都合が非常にスムーズになるからという、申し出があっております。でこっからも大体ご参拝の人員を大体、申しております。ですから昨日高橋さんとお話た所ですけども、今度大体バスでおかげ頂きたいと思いよりましたけれども、却って銘々の車での方が良い事ないだろうかと云う事になりまして。
 まぁここで例えば田主丸のむつやさん、それから正義さん、それから文男先生秋永先生んとこ、麻生さんそれともういっちょ誰じゃったですかね、とにかく6台あれば30名大体乗れる訳です。ですからもしあの今私が申しました方々で出来ないならば申し出て頂いてです。あの他の車にご相談しなきゃなりません、だから揃うてその様な風で明日お願いしようと云う事に致しとりますからどうぞ、必ず30名に限った事じゃないのですから。特にその多いなら久留米地区の方達はこちらにおいでられずに。
 直接お参りを頂いたらいい。ただお初穂だけはここでまとめて頂きたいとこう思うのです。この記念祭は75年の式年祭で御座います。若先生昨日から今日にかけてあちらへ御用に行きよります。もう今日帰って参りましてえらい早もう5時頃帰って来ました。えらい早かったじゃないかちゆうたら、もう今度は何時もと違って、非常に先生方がはずんじゃる。だからもう本当にあの、もうビチビチしてから。
 あの皆さん御用がでけておったから、早く済んだちゆう。はぁこりゃもう、それこそ合楽に負けちゃならんぞと言った様な、是は良い上に置いてですよ、合楽ですらおまやぁじゃないかと、言う様な所に、何かこう刺激があったのじゃなかろうかと、今迄かってにない、皆さんの御用ぶりであっ、生き生きしたものであったと言う様な事を話しておりましたが、どうぞそういう雰囲気の中にお参りをさいて頂くので御座いますから、どうぞ宜しゅうお願い申します。27日は、どうぞ久留米ですから、宜しゅう。
   おかげを頂きまして有難う御座います。